『半分、青い。』最終回まで見て私が解消できなかった2つのもやもや

NHK連続テレビ小説の『半分、青い。』が今日最終回を迎えました。
このドラマに対して「こうして欲しかった」というお気持ち表明のエントリーです。
もやもやは多いのですが発散し過ぎも良くないので2つに絞ります。以下の2点です。


■もや1:主人公=鈴愛の打ち込む対象が編ごとにガラっと変わってしまう
「東京・胸騒ぎ編」では職業漫画家、「人生・怒涛編」では100円ショップチェーン店のバイト、「戻りました!岐阜編」では五平餅カフェ、「再起奮闘編」ではベンチャーでの製品開発と、編ごとに自身の生活を守るための仕事が異なり類似性もないことが、この作品の一つの特徴になっています。
「人生思うようにいかない、でも生きている」という気持ちを抱えている私にとって、鈴愛の危なっかしくもなんとかやっていくしかない、やっていけているという感じはなんとなくリアルで共感が持てたのですが、好きなキャラ造形だったかというとそうではなかった。主人公を好きになれるかどうかは、物語鑑賞で大きな要素と私は思っています。
「どういう描写があれば鈴愛を好きになれたか?」を考えると、10代から20代後半の多感な時期に打ち込んだ漫画に対し、もっと人生を通して親しんでいて生活の一部にしているという設定が欲しかった。
漫画家を断念したことを負い目にして娘の花野に対して絵を描こうとしないような寂しい描写をするのではなく、大納言のポップを積極的に描いてちょっとした話題になったり、家で娘に漫画を描いて読み聞かせたりするようなハートウォーミングなエピソードが挟まれ、「漫画家を辞めても鈴愛の人生の中では絵を描くことが楽しみになっている」という描写がなされていれば、私はもっと鈴愛に親しみを持つことができたと思います。


■もや2:裕子のお取り扱い
この作品が東日本大震災を取り扱ったのは予想外でした。
その震災の取り入れ方が粗雑だった(私にはそう思えた)ことで、私の観測範囲でも批判を多く目にします。
しかしこのエントリーでは震災そのものの取扱は脇において、震災で亡くなることにされてしまった裕子の取扱について書きたく、その死をドラマ的に有効活用できていないことに不満があります。
親しい人物の死について、寿命や病で死ぬキャラは、予め視聴者に知らされていることから、死そのものに大きな衝撃はなく、逆に大きなカタルシスの描写も難しいと思います。
一方で裕子の死は予見できるものでは無く、主人公の鈴愛にしても衝撃を受けて立ち直れない描写にかなり時間を取っています。言い換えると大きなカタルシスに繋げるチャンスです。
最終回の1話前の「裕子が死の間際に携帯電話に残したメッセージを聞く」というエピソードが、そのカタルシスを引き起こせる強さを持っていたか、どんよりとした曇天に明るく陽が差すような最終回に繋ぐ力になったかというと、私は力不足だと感じました。
そして最終回では「Mother」の完成発表の場面へと転換してしまい、裕子の死により生じた物語のエネルギーは回収されないまま話が畳まれてしまったように思います。
結果「裕子は安易なドラマ性を生み出すために無駄死にさせられ、その死の有効活用もされなかった」と思うに至り、話の選択に強い不満を持ってしまいました。


最後に、私の思い描いていた最終回について。
ドラマ終盤でフィギュアスケート、震災とキーワードが揃ったあたりで、最終回では成長した花野がスケートリンクで「花は咲く」に合わせて滑るような締め方をしてくれるのではと期待していました。
舞台は撮影に金のかかる会場でなくても問題なく、それこそ花野が憧れた浅田真央の訪れた福島の「田んぼリンク」のような青空の見えるリンクが良いです。
震災で亡くなった方のシンボルとなってしまった裕子に対する鎮魂のエピソードとして印象的になり、また花野がフィギュアスケートを始めることも伏線にできたと思うのですが。
もちろん実際に放送された最終週は上記のようなエピソードを築く時間の余裕も無く、私の勝手な思いに過ぎません。


■スケートと人生と 浅田真央 初めて語る思い
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4106/


批判的な内容となりましたが、基本的に私はNHKのドラマ製作はクオリティに信頼がおけると考えていますので、次の連続テレビ小説まんぷく」も楽しみに待ちたいと思います。

以上です。